なにもかもわすれて生きねばなりません
いまのマンションに実家ごと移り住んで数年も経ってはじめて思いだしたのは生後数ヶ月の頃から十八歳くらいまで住んでいた古い古い木造平屋のアパートの音のこと、すべての戸の立て付けの悪いまず玄関を閉めるのにコツが要る、引っ張りながら持ち上げるとか、靴を脱いで一歩上がればもう居間で踏めばじゅうたん越しに床だって音立てて、急な階段を妹らの駆け下りる音や砂壁のちょりちょり崩れる音(その砂の裸足の裏につく感触)、隙間風(さむい)、雨の夜には一階の裏口の上へ掛かる平たいトタンの廂に水のぶつかる音を二階の布団のなかで聴いたし(その布団は窓に干すうちにずり落ちてその同じトタン屋根に受け止められたこと数知れずです)、取壊しの決まった最後の頃には屋根裏にきっと住み着いていたねずみ達の駆ける音も聞えていました。越してから、たとえつよく閉めたとしてもレールから外れることもないだろう扉の開閉はみな当然のようにおなじ感触だけれどあの家の戸はひとつひとつ力加減も音の響きも(落書きやシールの跡も)何もかも違っていた、ということを何となく、思いだしたのでした。その場所にはいま小綺麗な単身用のアパートが建てられて、また住みたいとは思わないし叶わないけれど、記憶のなかでだけそれは有難い。
-
恋びとがいても一人で旅に出ることのできる人が好きだしわたしもそうしたい、と数ヶ月前に思ったことがあったのでした。つねづね解散をしつづけて手紙を書きつづけたいのだとおもう。それから少し経ってやっぱり一人ではどこへも行くことができないと思い知っています、帰って来る為めのことだったのでしょう。だけど一人でも二人でも、旅に出るひとは出ていつもちゃんと帰ってくるんだね。移ろいながら大体おんなじところにまだいます。
-
近頃はぽつりぽつりと断章を読み進めていたフェルナンドペソアの文章にとにかく好意を抱いてしまう、わたしは女だけれど、その場にペソアを好きだという女性がいても、なにか'異性'を感じて魅力的に映るのだろうなとおもう、自分のことを言われたのじゃないかと思えてしまう文章(救われる)もあるのによくわからないけれど、だからほんとうは憧れというのかもしれない。
なにかを言うこと。言うことができること。書かれた声と知の映像によって存在することができること。人生はそれ以上には値しない。
いまは別のことをしていても、書いていても書く以前からある日から、なにも(まだ)言っていなくても、なにも(もう)言っていなくても、あのひとは作家だった、詩人だった、と相変わらず性懲りもなく信じてしまっている人が(ほんの数人)交流を断っている中にもいます。沈黙するひとと出会うことはできなかった。だけど憧れを踏んでわたしが急に勝手に期待してしまったことがほとんどひどい裏切りのように残りながらそれはまったく影響のないことでもきっとあって。信じるという限り生身で出会うことのだからもう二度とない、関係と思いたい。いつかきれいに何もかも、忘れたころにあらわれる、それからやっと思いだせること。
―フェルナンド・ペソア著 澤田直編訳『不穏の書・断章』思潮社
-
恋びとがいても一人で旅に出ることのできる人が好きだしわたしもそうしたい、と数ヶ月前に思ったことがあったのでした。つねづね解散をしつづけて手紙を書きつづけたいのだとおもう。それから少し経ってやっぱり一人ではどこへも行くことができないと思い知っています、帰って来る為めのことだったのでしょう。だけど一人でも二人でも、旅に出るひとは出ていつもちゃんと帰ってくるんだね。移ろいながら大体おんなじところにまだいます。
-
近頃はぽつりぽつりと断章を読み進めていたフェルナンドペソアの文章にとにかく好意を抱いてしまう、わたしは女だけれど、その場にペソアを好きだという女性がいても、なにか'異性'を感じて魅力的に映るのだろうなとおもう、自分のことを言われたのじゃないかと思えてしまう文章(救われる)もあるのによくわからないけれど、だからほんとうは憧れというのかもしれない。
なにかを言うこと。言うことができること。書かれた声と知の映像によって存在することができること。人生はそれ以上には値しない。
いまは別のことをしていても、書いていても書く以前からある日から、なにも(まだ)言っていなくても、なにも(もう)言っていなくても、あのひとは作家だった、詩人だった、と相変わらず性懲りもなく信じてしまっている人が(ほんの数人)交流を断っている中にもいます。沈黙するひとと出会うことはできなかった。だけど憧れを踏んでわたしが急に勝手に期待してしまったことがほとんどひどい裏切りのように残りながらそれはまったく影響のないことでもきっとあって。信じるという限り生身で出会うことのだからもう二度とない、関係と思いたい。いつかきれいに何もかも、忘れたころにあらわれる、それからやっと思いだせること。
―フェルナンド・ペソア著 澤田直編訳『不穏の書・断章』思潮社
2012.01.10 | - |

